[コラム]ものづくりの視点

vol.75火星をめざす「御手洗い」
財団法人長野県テクノ財団 事務局長
林 宏行

DTF欧州販路開拓ミッションより①

 今回のコラムは、1月30日から2月13日まで、DTF研究会の欧州販路開拓ミッションに同行した(財)長野テクノ財団事務局長林宏行氏に寄稿いただきました。参加者は16名、DTFの技術と製品のPRを目的として、スウェーデン、スイス、イタリア、フランスの企業、大学、支援機関延べ20か所を訪問、その中からいくつかの企業をご紹介します。

 「DTFは、"フレンドシップライン"。小さな機械であると同時に、複数の企業の製品の連携を可能としています。単に地球と環境にやさしいモノづくりのみならず、リーン生産方式をも超える次世代のプロセスイノベーションを起こそうとしているのです...。」
 雪のヨーテポリ(スウェーデン)からスタートした「DTF研究会欧州販路開拓ミッション」も5日目に入ったが、平出正彦会長(株式会社平出精密代表取締役)は疲れを知らない。もの静かに語り始めたと思うと、時に笑いを取りながら相手をひきつけてゆく。ヒライデ節は今日も健在であった。

 スイス・バーゼルの南にある小さな町リースタル(Liestal)に、そのインキュベーションはあった。一見、校舎にも見える板張り五階建てのアパートメント。その前に立つ看板には、「Technopark Tenum」の施設名に加え30もの企業名がサインを連ねる。夜も明けきらぬローザンヌからバスに乗り、森と牧草地が見えるこの建物のドアを開けると既に、中央の吹き抜けにあるランチルームの準備も始まっていた。
 案内されたのは、「Nanosurf」という社名の小さなラボラトリーの一室。2008年、その会社の電子顕微鏡が「火星探査機」に乗った。以来、世界から注目される存在となっていたのだ。
 「15年ほど前に古ぼけたガレージでスタートしてここまできました。小さな工場しか持たない我々が目指したのは、"コーヒーテーブルの上で観るSTM"、つまり、テーブルサイズの電子顕微鏡だったのです。」...CEOのドクター・マタ―氏(Dr.Urs Matter)はスクリーンを指差しながら、その技術の先進性と優位性を力強く説明してくれた。
 そして、こちら側のプレゼンテーション。時間の関係で、平出会長が代表で立ち上がった。訪問先の企業の話を聞いてから、こちらが行う...、当たり前の事かもしれないが、相手を理解してからの方が、戦略は立てやすい。そして今、平出会長のプレゼンには、「フレンドシップ」が強調されていた。

 ところで、DTF研究会にとって「スイス」は特別な地でもある。「小さな製品は小さな機械で」をキャッチフレーズに活動を始めたのがMillenniumの2000年。当時はまだ、企業間の意識の壁や対外的な足並みの問題などもあって、山在り谷在りの状況だったそうだ。しかし2006年、ジェトロのRIT(地域間交流支援事業)に採択され、フィンランドやスイス、フランスなどの産業集積地との交流が進むと次第に変化が現れはじめる。とりわけ、スイスにおける企業と大学等との絆の強さを見たときに、産学連携、産産連携の重要性を強く意識したという。既に、ローザンヌ工科大学とは技術提携も進んでおり、昨日の訪問においてもワークショップやミーティングなど7つものプログラムが用意されていた。

 さて、互いのプレゼンテーションを終えて案内されたのは開発室。入り口には様々なタイプの顕微鏡が並んでいる。オランダ人の若い技術者は、最新鋭のポータブル電子顕微鏡を指差し、センシングの水準の高さや機能特性を説明し始めた。そして驚くことに彼は、OLYMPUSやCANONといったメーカー名を幾たびも口にしたのだった。彼らは、主要パーツのテクノロジーは日本に委ねたうえで、ニーズに応じた最適部品のアレンジ力と、「軽・薄・短・小」というかつての日本が得意としてきたビジネスモデルで宇宙を射止めたていたのである。
 『火星に初着陸...アルプスからカセイまでワレワレのAFM!』...振り向けば、オフィスの壁を飾るポスターは日本語だ。さらに、トイレには漢字で『御手洗い』のサイン...。 そこに割って現れた人影が開口一番、「その部品を熟知している我々"DTF"の機械を買えば、僅かな揺れをも抑えてセンシングのスピードがもっと良くなる。木星だって越えてゆけます。(笑)」
 「御手洗い」を出てきた平出会長の闘志に火がついていた。

image001.jpg

(DTF研究会欧州販路開拓ミッション。節分のバーゼルより)


【掲載日:2011年2月21日】

林 宏行

財団法人長野県テクノ財団 事務局長
1963年下伊那郡喬木村生まれ。長野県商工部振興課、総務部地方課、市町村TL(課長)、下伊那地方事務所地域政策課長などを経て、2010年4月から現職。http://www.tech.or.jp/

vol.74日本企業の競争力の源泉は、生産労働者の技能上位一割層
山岸國耿

 先日、法政大学の小池教授が日本経済新聞紙上で、「日本企業が海外で稼ぎ、大いに健闘している、今後益々国の経済に貢献していく」とし、その海外での日本企業の競争力の源泉は、「マニュアルに無く、設計図に無いような生産現場でのこまごまとした諸問題を解決し、改善提案等をしていく中堅人材を、現地の職場で形成し活用していることだ。この中堅人材とは、現場の製造技術者や生産労働者の技能上位1割層だ・・(ハイテクではない・・??)」と述べておられます。
 また同様の事例として、私が県内の会社を訪問した際よく聞いた話に「この会社は、工場の職長や班長でもっている。彼らががんばっているから会社が儲かっているのだ・・・(社長や部長ではない・・???)」とのこと。現場の長である彼らが、親企業や上司から指示される無理難題・・??を克服し、部下を上手に掌握して業績を上げる原動力となっているとのことでした。
 更に以前、太平洋戦争等に従軍した人から「日本の軍隊が戦闘の現場で強いとされたのは、下士官層が強かったからだ・・(将校ではない・・??)」、との話もお聞きいたしました。
 これらのいずれの話も共通していて、組織を構成する第一線監督者層等の優秀さとその活用の重要性を物語っており、大変興味深く得心いたしました。

 ご承知のとおり日本は、少子高齢化社会を迎え、15歳から64歳までの生産年齢人口が益々減少する社会構造となっています。国内での消費が頭打ち傾向となり、企業の成長を海外に求めざるを得ない状況も増してきており、日本経済の国際化は、今後いやおう無く益々進むものと思います。

 小池教授は、「どのような人材が今後の日本の雇用を支え、"成長の源"になるのか、結論から言えば、それは海外に進出した日本企業で活動する人たちである。」とのこと。特に上記のような従業員層がその多くを担っている・・・とのお話に大変共感いたしました。
 今後の日本経済を考える上での解の一つが、明確になってきたとの思いがいたしました。

【掲載日:2011年2月 9日】

山岸國耿


昭和19年上田市生まれ。38年間長野県職員として長野県商工部関係機関に勤務。長野県工業試験場長を最後に定年退職。その後財団法人長野県テクノ財団に勤務、専務理事を平成22年3月末に退任、平成22年7月に国の地域活性化伝道師に就任

vol.73白い蒲公英(タンポポ)
長野県テクノ財団ナノテク・材料活用支援センター長
若林信一

 自分たちの価値観とは違う何かに出会うことは、外国を訪れたり暮らしたりするときの楽しみの一つでもある。
 私が二年間暮らした韓国では、日本と同じく「箸」(젓가락:チョッカラ)を使うが、必ずスプーン(숟가락:スッカラ)が付いてきた。唐辛子(고추:コチュ)は種類も多く、焼き肉の時などには味噌を付けてバリバリと一種のフルーツ感覚だったし、日本の物とは違って向こうが透けて見えるような海苔は、ゴマ油の風味と塩味が絶妙でビールには欠かせない存在であった。イタリアンレストランでパスタやパエリアを注文したら、キムチや沢庵漬けが添えられてきて、驚きつつも妙に納得してみたり...等々。同じと見えて違うこと、異なるように見えながらも、本質はほとんど変わらないことがあったりするものだ。そして、その歴史や価値観に触れたときには、それが些細なものであっても、なんとなく得した気分になったりする。

 私が赴任した2005年は、日韓関係がギクシャクした時であった。三月に島根県議会で「竹島の日」条例が成立し、韓国の反日感情が高まっていたし、赴任直後の6月には、対馬沖の日本海(日本の排他的経済水域内)で違法操業をしていたと思われる韓国漁船を海上保安庁の巡視船が拿捕、韓国側と対立し緊張が走った。経済面では、円に対してウォンがひたすら上昇し続け、円建てで日本に輸出するビジネス構造をとっていた会社の経営は大変厳しいものがあった。そもそも当時の韓国企業が置かれていた状況は、前方には技術や商品開発力で先行するアメリカや日本があり、後方には豊富な労働力と低賃金で大量生産する中国などが迫っていた。まさに前門の虎、後門の狼の状態でもあったのだ。

 然(しか)して、今日の世界経済はグローバルだ。そのうえ各国の利害が複雑に絡み合う混沌とした競争社会にあると、ともすれば自分達のいいところを見失ったりもしてしまう。
 安くはないが、いいものを作るようにすればいい、戦略や戦術が拙(つたな)くとも真面目に技を磨けばいい...、考えてみれば日本の成功の理由は、戦後の高度成長という側面もあろうが、アメリカなどの経済大国が光をあてていない領域での、地道な努力も多かったように思う。そして、その源泉は、わずかの傑出した人材の存在というよりも、多様な分野に存在した職人たちの層の厚さにあったのだ。
 私の好きな詩のひとつに、「... 鈴と、小鳥と、それから私、みんなちがって、みんないい。」がある。身近にあった「細やかなもの、力の弱いもの、忘れがちなもの」を題材にしていた金子みすゞの詩は時に、小さな違いに気づくこと、一隅を守ることの大切さを思い起こさせてくれる。

 今年もはや立春。雪の下では、様々な草花が春を待っているのだろう。そういえば、韓国には白い蒲公英(민들레:ミンドゥルレ)もあった。蒲公英は世界の彼方此方(あちらこちら)で咲くが、白いのは珍しい。
 春まだ浅い順天市(スンチョン)の、民家の片隅へと続く土の道に見た、石垣を分けて咲く白い蒲公英の眩しさは、今も忘れることができない。

110204_01.jpg

【掲載日:2011年2月 4日】

若林信一

長野県テクノ財団ナノテク・材料活用支援センター長
1949年長野県生れ 新光電気工業(株)にて取締役開発統括部長、韓国新光マイクロエレクトロニクス社長などを歴任。2009年5月から現職。
http://www.tech.or.jp/