[コラム]ものづくりの視点

vol.113無事 廃業できて良かった・・・・
山岸國耿

 先日、テレビで東京大田区のある経営者が、工場を廃業したいが機械設備等の借金があってできず、困っているとの深刻な話がありました。

 一方、私の友人や同級生の中で、会社などに勤めず自営した人が最近相次いで廃業しました。

 松本市のO君は、不動産店を廃業しました。この地域では不動産店がまだごく少ない時期に開業し、老舗の不動産店として幅広く営業活動をした。土地の値段が異常に上がった不動産ブームも経験し、巨額の取引も手掛けた。温泉などで多数の芸者さんを呼んで、お客の接待などもした。・・・とのこと。
 しかし、最近は、売上が減少し同業者との過当競争などもあって、業績は低迷していました。そこで、廃業しようと3年あまりかけ、借金や所有していた古いアパート等を清算して、現在のお客や取引関係のある不動産物件を他の不動産店に引き継ぎ、無事廃業することが出来ました。「やっと楽になれた。」とのことでした。

 長野市のC君は、大学を出た後、一時大手の電機会社に勤めましたが、20才代で自分の持つ技術をいかそうと、地域でも特色ある電気部品を生産する工場を立ち上げました。「最盛期には数十人規模の工場として、多量の受注があり、徹夜徹夜の連続だった。しかし最近は受注が減少してきたので、工場を閉じようと考えた。そこで、ここ数年工場用地を売却したいと市や関係者に依頼していたが、買ってくれる会社がなかなか見つからなかった。しかしようやく今年売ることができ、廃業することができた。」と喜んでいました。「数十年前の開業した時は、この工場団地の土地を求めて多数の会社が抽選に参加し、ようやく当選して土地を買うことができた。現在のような土地が売れない状況からみると、夢のような時代だった。」と製造業をめぐる環境の激変ぶりを語っていました。

 更に、以前もお話しましたが、同級生のD君は、大学では土木工学を専攻し、土建業を立上げました。公共事業がふんだんにある時代、儲かって儲かってこまる。・・・ような経験もしたそうです。しかし最近は、公共事業が減少し、仕事が激減した。銀行に相談しながら無事廃業できたが、その時期を逃した同業者は、廃業もできず倒産に追い込まれている。・・・とのこと。「土地だけは残って良かった。」と言っていました。

 それぞれ、昭和40年代後半に30才前後で開業しています。不動産、電機、土木等高度成長の波に乗った花形産業で、約30数年間会社を経営しました。 一時それぞれが事業を大きくしましたが、次第に売上が伸びず過当競争となってきて廃業を決意するに至ったとのことです。

 "産業のライフサイクルは30年"と言われています。事業の立上げから廃業まで、この3人は絵にかいたような経験をしたと言えましょう。 一応に「無事 廃業できて良かった。」との切実な思いで、肩の荷を下ろした様子でした。

【掲載日:2012年7月20日】

山岸國耿


昭和19年上田市生まれ。38年間長野県職員として長野県商工部関係機関に勤務。
長野県工業試験場長を最後に定年退職。その後財団法人長野県テクノ財団に勤務、専務理事を平成22年3月末に退任、平成22年5月に公益財団法人 HIOKI奨学・緑化基金の監事に就任。
平成22年7月に国の地域活性化伝道師に就任。