長野県坂城町
竹内製作所
建設機械の分野で、海外のビッグカンパニーと並び立つ信州企業がある。世界で初めてミニショベルを開発した竹内製作所だ。
小型建機のパイオニア「TAKEUCHI」は、特に欧米市場で高い評価を得て、「建機のベンツ」と称される。800億円超の売り上げの95%以上を海外で稼ぐ国際企業なのだ。 新たな市場を開拓し、世界に展開するビジネススタイルは、世界と戦う日本のものづくり企業の、まさしく「トップランナー」と呼ぶにふさわしい。
1989年、東西冷戦の象徴・ベルリンの壁が崩壊した。
この壁の撤去にメイド・イン・ナガノ=竹内製作所のミニショベルが使われたことを知る人は少ない。数十年に及ぶ自由への呪縛を、竹内製作所のミニショベルが黙々と解き放っていく…それは冷戦の終結を告げるとともに、世界に羽ばたく長野県企業の名が歴史の1ページに刻まれた瞬間でもあった。
1971年に坂城町で生まれた、世界で初めてのミニショベル。
「TAKEUCHI」のミニショベルが欧州・北米で選ばれる理由は、なんと言ってもその性能の高さだ。
ベルリンの壁の撤去で活躍できたのは、高くて狭い場所でも作業ができる優れた操作性と安定性があったからだ。
多くの「ものづくり企業」が集まる坂城町。千曲川の西岸、びんぐし山の緩やかな稜線を背にして竹内製作所はある。
案内された工場で、私たちは奇妙な光景を目にした。
無人のミニショベルが、ただ右へ左へと旋回を繰り返す。残暑の強い日差しに照らされた重機のシルエット。ボディには無数の電気コードがつながれていた。
これこそ、「世界の信頼」を支える製品試験だった。
同社のミニショベルは年間2000時間の稼動に耐える。これは日本での平均稼動時間の約2倍だ。きわめて過酷な条件下でも際立った耐久性、居住性、安定性を示す。「建機のベンツ」と称されるゆえんがここにある。
品質や耐久性の裏づけとなるのは経営者の「徹底した現場主義」だ。
「先日インドに行きました。あそこはものすごく暑いんです。40度を超える日も多い。だから、ミニショベルはみんな屋根を取っ払って使ってる。こんな現場でも壊れちゃいけない。壊れたら工事が止まっちゃう。だから40度や50度でもちゃんと動くミニショベルを作れって工場にはっぱをかけるんですよ」ユーモアたっぷりに語る創業社長の竹内明雄氏。
世界の現場に自ら出かけ、自ら現場を感じ取る経営者の姿勢が、ユーザーに激賞される製品づくりにつながっている。
現場主義の成果は品質向上だけではない。
「お客様の現場を見て、実際に話を聞いてみることが、新たな製品づくりや技術開発のヒントになるんです」
同社の主力製品のひとつに成長したクローラーローダーの開発も、こうした竹内社長の姿勢から生まれた。
新たな市場を開拓しようとアメリカに乗り込んだ竹内社長が目にしたのは、故障して修理工場に並ぶ土砂掘削・運搬車両だった。粘土質の地面に車輪を取られることが原因だった。「ならばクローラー式を採用すればいいのでは…」帰国後すぐに開発に着手し、完成させたのがクローラーローダーだった。
1989年ベルリンの壁崩壊。撤去にはTAKEUCHIが活躍した。(写真・竹内製作所提供)
世界で活躍するミニショベル(上)とクローラーローダー(下)
裸一貫から世界企業を創り上げた竹内明雄社長。70歳を超えてもアクティブ。
竹内社長はたたき上げの創業者だ。15歳で地元の自動車部品メーカーに入社。以来、独立するまでの14年間、ものづくりの技と感性を磨いた。創業は1963年。退職金代わりに受け取った旋盤を置き、自分で屋根をふいた小さな工場からのスタートだった。
7年後の70年、転機が訪れる。
住宅の基礎工事の関係者から「手頃なショベルカーを作れないか」と相談を受けたのが、世界初のミニショベルの始まりだった。
当時、ショベルカーといえばどれも大型で、市街地の道路工事や住宅の基礎工事はスコップとツルハシで行わなければならなかった。
「私も穴を掘ったことがあるんですが、これは大変な作業。スコップやツルハシの代わりになる道具を作れないかなと思いました。イメージはできていました。ショベルをスウィングさせて、全体も旋回できるようにすればいい」
世界初のミニショベル「TB1000」が完成したのは着手からわずか3か月後。
現場主義、そして、ものづくりの感性と熱意が生んだ画期的な新製品だった。
「おもちゃみたい」「床の間にでも飾っておくのか?」見たこともない小さな重機は周囲の笑いの的になった。
そうした声とは裏腹に、小型軽量で作業性の高いミニショベルは、地元の土木業者から圧倒的な支持を得た。同社は独自性を持った建機メーカーとして第一歩を踏み出したのだった。
日本は当時、建設ラッシュで建機市場も拡大していた。さらに住宅ブームや市街地開発も相まって、ミニショベルのニーズは一気に高まった。
しかし、問題もあった。
「いくら優れた製品でも、売ってくれる場所や人がいなければ、売れないんです。だから、はじめは作ることに徹しようと思った」
販売チャネル(売る仕組み)がないまま、建機の分野へ新規参入するのは容易ではない。そこで竹内製作所が選んだのは、大手建機メーカー名による受託生産の道だった。1975年、新たなブランド名を得た同社のミニショベルは、瞬く間に日本全国に浸透していった。
ミニショベルに、クローラーローダー。
新製品が国内外に新しい市場を創造し、竹内製作所は着実に成長を続けた。
ところが、好業績の原動力となった受託生産の戦略に影が差す。
竹内製作所が開拓した魅力的な市場に大手メーカーが相次いで参入し、委託生産から自社生産に切り替えたのだ。結果、竹内製作所の売り上げは激減。91年8月期、200億円を超えた売上高は、94年の8月期には100億円を割り込んだ。
「危機に直面し、何としても自分たちのブランドを作らなければ、と強く思いました。しかし、国内は大手メーカーが乱立して歯が立たない。ならば海外へ、と思ったんです。」
竹内製作所のとった起死回生の策は「世界市場の開拓」だった。
工場内で組み立てられるミニショベル。優れた道具が持つ「機能美」をまとう。
緩やかな流れのコンベア上で組立作業が行われる。
坂城からは、トラックで港まで運搬。ほとんどが海外へ。
海外への集中戦略をとったのは1993年。
時代は100円超える円高で、強い逆風の中での挑戦だった。
「最近のサブプライムローン問題や円高、株価下落は、ウチのような海外が主力の企業にとっては大ピンチです。でも、これまで何度も大きな危機を乗り越えてきましたから、心配していません。必ずいい時期が来るものです」
海外に挑んだ90年代を振り返り、竹内社長は続けた。「苦しい時期のしっかりとした基礎固めがあったらからこそ、欧州市場のチャンスをつかむことができたんです」
95年、竹内社長が自ら陣頭指揮をとり、ドイツのメーカーと油圧ショベルの共同生産を開始。96年にはイギリス、2000年にはフランスに販売子会社を設立した。
海外進出の前には綿密な市場調査などを行うのが一般的だが、竹内製作所は違う。
「もともと市場がないところですから、調査といってもあまり意味がないんですよね。だから広告に力を入れました。展示会にミニショベルを出して、とにかく機械を見てもらったんです」
これまで市場開拓の経験を生かし、同社は積極的に潜在需要を掘り起こす作戦をとった。これも、社長自身が現場を視察したからこその判断だった。
欧米での拠点づくりを進める中で、竹内製作所は「耐久性の高さ」をセールスポイントにした戦略をとる。
日本でのミニショベルの年間平均稼働時間は500~1000時間。一方、欧米では、建設だけではなく、造園、土木など用途が多岐にわたり、年間稼働時間は2000時間に達する。日本の倍以上の稼働に耐えられる製品を求めていた欧米のユーザーに「TAKEUCHI」は大歓迎された。
竹内製作所のものづくりの理念はきわめて明確。「壊れないミニショベルをつくる」ことだ。
それまでの重機は故障がつきもので、そのつど作業がストップした。たとえ1台あたりの値段が高くても、故障が少なく作業効率が上がればコスト面で評価につながる。
「ミニ」とはいえ、ショベルカーには8000から1万もの部品が使われる。竹内製作所では、その部品ひとつひとつを、熟練の技術者が設計している。
「大学を出たばかりの若者が、理論だけで設計してもダメなんです。3年は現場に出て、組み立て作業から体で覚えてもらう。10年経って1人前の設計者になれればいい方です」
竹内製作所では、「常に現場から学ぶ」姿勢がエンジニアの育成にも貫かれている。
新製品を生み出す徹底した現場主義、いち早く海外戦略を展開した経営判断、そして基本にある「壊れない」製品づくり。愚直なまでに一貫したものづくりの姿勢が功を奏し、2000年に100億円だった海外での売り上げは2008年2月期には800億円に到達。会社全体の売り上げの95%以上を占める。竹内製作所は欧米では5指に数えられるミニショベルのリーディングメーカーに成長した。
「TAKEUCHI」の次なるターゲットは、発展めざましいロシアや、新興国のインドなど。
世界の人々が豊かな暮らしを求めて道路を整え、家をつくろうとする限り、メイドイン長野のミニショベルは地球規模で躍動する。
「10年で一人前」と語る総務・宮坂光則参事。
坂城の敷地内に並ぶ「建設機械のベンツ」
「耐久性の高いミニショベル」活躍の舞台は世界。
株式会社竹内製作所
長野県埴科郡坂城町上平205 TEL.0268-81-1100
http://www.takeuchi-mfg.co.jp