[コラム]ものづくりの視点

vol.112奇跡のリンゴと黒い森
長野県テクノ財団ナノテク国際連携センター所長
若林信一

 もう10年も前のことになるが、ドイツ・バイエルン州のキルヒハイム (Kirchheim)と言う小さな町に泊まったことがある。
 仕事を終えた翌朝、ホテルで目が覚めたら早朝にもかかわらず人のざわめきが聞こえた。隣の広場を見ると休日の市が立っていた。花や果物、野菜など様々なものが売られていたが、ふと小振りなリンゴが目にとまった。聞けばそれが「ジョナゴールド」だという。長野の立派なリンゴを見慣れていた私には、とても貧相な代物に映った。しかしそれは、逸早く農薬の使用を止めたドイツにとって当たり前のものであり、彼らは"こういうのしか齧って食べない"ということだった。
 そもそもリンゴの無農薬栽培は大変に難しく、あの「奇跡のリンゴ」の主人公の木村秋則さんの場合も、農薬の使用をやめてから失敗に失敗を重ねて、8年目にようやくリンゴの木は白い花をつけた。それは、人の手で品種改良を重ねた果実が、いかに自然の中では弱いか、ということを物語っている。木村さんの辛抱には頭が下がるし、自然と向き合い闘っていた主役は、リンゴの木そのものだったようにも思えた。
 ドイツの「ジョナゴールド」や「奇跡のリンゴ」は一見、昔の栽培方法に戻す話のように聞こえるが、けして単なる自然回帰ではない。自然環境を学び、リンゴの木に自然と闘う力を付けていくという、最先端の生命科学への挑戦でもあるのだ。

 ところで、バイエルン州に隣接するバーデン=ヴュルテンベルク州には「シュヴァルツヴァルト:Schwarzwald」(黒い森)と呼ばれる地域がある。
 総面積は約5180平方キロ、千葉県や愛知県がすっぽり入る広大な森だ。その多くは人間の社会活動で荒らされた自然を再生しようと200年も前から植林された樅の木である。もちろん林業が盛んであるが、精密産業の集積地としても知られている。
 第2次世界大戦後、シュヴァルツヴァルト(黒い森)は、火力発電の石炭燃焼などが原因と考えられる酸性雨によって多くの木々が立ち枯れてしまう。そして「黒い森」の深刻な事態は、この国の社会政策を大きく転換する因(もと)ともなっていく。
 現在、同州にある都市「フライブルク市」は、「環境首都」とも呼ばれており、官民挙げての取り組みは徹底している。大気汚染対策として脱クルマ政策を展開、公共交通や自転車の利用を促し、エネルギー政策では脱原発・自然エネルギー推進をとり、太陽光発電等の普及に取り組んでいる。

 天上から人間に火をもたらしたというギリシャ神話の神「プロメテウス」は、その行為によってゼウスの怒りを買い、岩山に張り付けにされてしまった。しかし、その火によって人類は、文明社会を築いたのである。
 「プロメテウス」と言う名は、pro(先に、前に)+metheus(考える者)から来ており、「先見の明を持つ者」「熟慮する者」を表すそうだ。
 シュヴァルツヴァルト(黒い森)とは、木々を薪に変え、化石燃料を掘り、核の火へとたどり着いた人間の紆余曲折の森のようにも思えてくる。そして我々は今、「プロメテウス」の名が示すように「熟慮」する時を迎えている。シュヴァルツヴァルト(黒い森)は、暗く深い。

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【掲載日:2012年7月18日】

若林信一

長野県テクノ財団ナノテク国際連携センター所長
1949年長野県生れ 新光電気工業㈱にて取締役開発統括部長、韓国新光マイクロエレクトロニクス社長などを歴任。長野県テクノ財団ナノテク・材料活用支援センター長を経て2012年4月から現職。博士(工学)
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